されど海のごとく


今日と同じように、春の気配漂ういいお天気。
ほどなく始まる予定のレコーディングに向けて曲作りの日々だったので、
私はあの日も部屋にこもってピアノの前にいた。
1曲、よしだいたいかたちになったかな、というわけで、アレンジの宮崎くんに送るために録音しよう、と思った瞬間、揺れた。
2011年3月11日、午後2時46分。

幸い物が落ちたりすることはほとんどなかったけど。
収まって、とりあえず小学校に走った。
子どもの足でも歩いて5分くらい。私が走って3分くらいだったかな。
当時息子は小学校2年生。
ちょうど下校時間、揺れたのは帰りの会の最中。
学校に着いたら子どもたちはランドセルしょって帰り支度の姿で、上履きのまま校庭に。
入学する時買った防災頭巾。普段は教室の椅子の座布団だったんだけど、
みんなそれをかぶってて、ああ、こういうふうに使うのか、初めて知った、とか思った。
使う時が来るなんて、思いもしなかった。

わらわらと駆けつけてくるおかあちゃんたち。
普段きれいにしてる顔見知りの人の、見るからに部屋着のスウェット姿に、あら、と思い、そうだよね、と思い。

新卒で専科(音楽)の先生になって、翌年ウチの息子が入学した時からクラスを持つようになって、2年目だった女の担任の先生。
(私のライブも何度か見にきてくれた。O先生、お元気かなあ)
泣いたあとの真っ赤な目で、保護者の対応してた。先生も怖かったよね。
避難訓練と一緒に引き取り訓練もしてたから、
決まりの通り、名前書いて等々手続きして、子ども引き取り。

知らない人が勝手に子ども連れてったら大変だから、ということで、
あらかじめ緊急時に誰が迎えに行くか決めて紙に書いて提出しておくんだけど、
のちに被災地での様子を見ると、その仕組みが明暗を分けた場面があったようだと知り、
とても胸が痛かった。
学校は学校なりに精一杯子どもの安全を考えてるけど、学校というところはお役所なので、どうしても融通の利かないとこがある。
ひとつ上とひとつ下に、同じマンション同じ保育園の仲良し兄妹がいて、
お母さんは近所の病院の看護師さん。
病院もきっと大騒ぎ。いつ迎えに来られるかわからない。
先生たちもみんなわかってるけど、私の名前が引き取りリストにないので、引き渡せない。
なんとかならないかわあわあ話してたら、看護師の制服姿のお母さんが仕事場から走ってやってきて、先生に話したのでオッケーが出て、私は子ども3人連れて家に帰った。

あれから11年。
こないだその兄妹に久しぶりに会ったら、あの時小1、この春大学生になる妹ちゃんは私に手を引かれて帰ったことを覚えてて、なつかしそうに笑ってた。

次から次から、いろんなことどんどん思い出す。
私は何を失ったわけでもないけど、忘れることも、終わることもないなと思う。

あの時の子どもが、どんどん大人になる。
核や原子力を避けて遠ざけるのではなく、
向き合って、勉強して研究する人が出て欲しいなと思う。
あの時のことを忘れずに、大きくものを見て決断できる、勇敢なリーダーが生まれて欲しいなと思う。

それぞれの311。
砂のように積み重ねた人。
砂のように風に飛ばされた人。
砂のようにすぐに壊れたりした人。
されど海のごとくそれぞれが生きていますように。
「人なんか住めなくなる」と言われた東京で、
疫病騒動がうっとおしいけど、私はなんとか、生きたいと願いながら生きています。