大きなお世話と秋の空


9/1にきっちり涼しくなって、今年は秋が早い、残暑なしか!と思っていたけど、
そのあと半袖と長袖を乱高下して、結局10月になってもTシャツを着てる。
ここ数日、昼間は夏の日差しで、私はノースリーブの日も結構あったなあ。

でも朝晩はやっぱり過ごしやすくなって、夏のこってりした重たい風とは違う、
ひんやりと透き通って、どこからかかすかにキンモクセイの匂いがした、ような気がする、
という気分にさせてくれる秋の風が心地いい。
空の青も、やる気満々の夏空ではなく、ちょっと高くて、手を伸ばしたくなる青に変わった。

今日もいいお天気、なんか急に山登りとか行きたくなっちゃうようなきれいな朝。
ゴミを出しに外に出たら、ウチの前は小学校の通学路なんだけど、マスクして粛々と登校する子どもたち。

お節介なおばさんはついつい思ってしまうわけで。

全員マスク外して深呼吸してごらん。痛いくらい首をそらして空を見てごらん。季節が変わったことがわかるから。秋の匂いがするから。

この1年8ヶ月、子どもたち(と言っても幅は広いけど)が経験の機会をたくさん失った、ということが、やっぱり私はとても悔しいかなと思っている。
修学旅行が、運動会が、文化祭が、部活がという意見が出ると、つまんなかったから無くていい、という意見が出るのをよく見た。
でもね、つまらなかった、と思えるのは、経験したからなんだよ、といつも思っていた。
私が悔しいのは、つまらなかった、と思うことさえ経験できなかったということに対してだ。

保育園、幼稚園から始まって、小中高、大学生も、学校、みたいなものは大きな洗濯機みたいなもので、
とりあえずまとめてガラガラ回して、平気な子もいて、平気じゃない子もいて、
そのある種の過酷さの中で、自分が何が好きで何が嫌いで、向いてるとか向いてないとか、要するに自分がなんなのか気づいていく。
自分のことを振り返ってみてもそうだけど、「経験」は「思い出」ではないのだ。
思い出したくもないこと、も含めて、心と体で感じたものの量。
リスクと並走の、知らないから感じることができた熱。
期間限定、「うたかた」の価値。

それこそ「案ずるより産むが易し」で、今は今で、制限のある状況の中でも、
彼らは目いっぱい楽しんでいるだろうとも思うので、不憫に思ったりするのは失礼なのかもしれない。結局私は自分が悔しいだけで、その悔しさを誰かに押しつけようとしてるだけなのかもしれない。
老婆心、ってヤツで。大きなお世話。

きっと、こんな時だからこそ、風が変わったことに気づく子がいるかも。
みんながやるからやる、に疑問を持つ子がいるかも。
つるべ落としの秋の夕暮れ、一瞬で色を変える空を見てしまった子がいるかも。

いますように。