答えのない悲しみを


120322

今日はすこしだけあたたかかったけど、まだ、蕾は固く。

甲子園では昨日から春のセンバツ。
選手宣誓は、宮城・石巻工キャプテン阿部くん。

「答えのない悲しみを受け入れることは苦しくてつらいことです」

いいこと言うなあ、なかなか言えることじゃないなあ、と思いつつ。

あたしがコーコーセーの時なんて、
尾崎豊とか聴いて、
答えを探しまくってた。
答えのない悲しみなんてあるもんか、って、
あちこち引っ掻き回して、ひっくり返して、
粋がって、反発して、
真実、とか、自由、とか、口の中で転がしながら、
絶対どっかに答えがあるはずだって鼻の穴をふくらませてた。
バカで、愚かで、浅はかで、
でも、そういう気持ちが、エンジンだった。

多くの悲しみに答えなどなく、
答えを見つけることがすべてではないと私が知ったのは、
たぶん、うんとあとになってからだ。
呑気だった、あの頃、あたしも、時代も、と、しみじみ思う。

いいのに、と思った。
ボールが転がってる間にホームベースにたどり着いたら1点で、
送球が早ければアウトで、
そんなふうにシンプルに答えがあるって、
コーコーセーの頃なんて、信じて、言い張っていいのに、と思った。
だから、
阿部くんの宣誓は大人としてとても感動したんだけど、
なんだか、ちょっと痛ましかった。

大きな悲しみは、否応なくひとを大人にしてしまう。
あれから1年経って、
ああ、私たちはなんて大きな悲しみを経験したんだろう、と、
あらためて、思った。

我が家の息子は今日修了式で3年生おしまい。
シビレる通信簿に、大説教大会(笑)
叱られると黙り込むとこ、
何か言えと言われるとますます黙り込むとこ、
ああ、あたしにそっくりだ、と変なとこで感銘を受ける。
たぶんろくすっぽ話を聞いてないとこも、
聞いてもすぐ忘れるとこも似ていると思われ。

子どもは、ある意味、自分への答え、なのかもな。