答え合わせの時間


 ああ立春か、と思ったら、翌日春一番が吹いた。観測史上最速とのこと。たしかに2月に入ってすぐの春一番なんて記憶にない。思えばここ1年くらいずっと、前のめりに季節を追いかけてきたような気がする。去年の今頃、不穏な空気に包まれ始めた街で、とりあえず早く春が来ないかな、春が来れば、春になればと思っていた。春になったらなったで、夏が来れば、暑くなればきっと。毎度おなじみ猛暑の日々には、あとすこし、涼しくなったら落ち着くよきっと、という具合に。そして二度目の冬。せっかちすぎる春一番。早く早くって言われるのを見越して、神さまが気を利かせてくれたのかなあ、なんて。

 すこし前、ふと見かけたツイートに、私について書かれた古い文章のリンクがあった。アップデートは1998年10月15日。アメリカ人のプロデュース、メンフィス・ナッシュビルでの録音という、起死回生的でもあり断末魔的でもあった大博打で制作されたアルバムからの先行シングル「ガラスの靴」リリース直後に、当時のファンの方が自分のサイトにアップした記事で、タイトルは「言葉の力を取り戻せ」。サブタイトルに、最近の篠原美也子の変化にあえて苦言を呈す、とある通り、いま読んでも手厳しい内容である。と言うか、長所も弱点も的確に見抜きつつ、デビューからの変遷、最大の武器である「言葉」を見失って迷走に至る分析があまりに正鵠を射ており戦慄する、と言った方が正しい(「主語の隠し方」についての指摘は鋭い。デビュー曲の「ひとり」を、私は確信犯的に「私」も「あなた」も使わずに書いた)。

 私はそのテキストを、リアルタイムではなくすこしあとになってから読んだ。理由は簡単で、ミレニアムを前にインターネットは急速に普及し始めていたけれど、98年秋の時点で私はPCはもちろん携帯電話すら持っていなかったからだ。

 結果的にメジャーレーベルからの最後のリリースとなる6枚目のアルバム「magnolia」を11月に発表したあと、私は次の作品に向けて曲作りに取りかかったものの、大スランプで作業は進まず、翌99年春、メーカーとマネージメントオフィスから戦力外通告を受け、ここから約1年間音楽から離れる。元マネージャーがホームページ「room493」を立ち上げてくれたのが99年秋。ヒマだからなんか書くか、と思って書き始めたのがこのノーコンエッセイ。最初は実家の妹のPCを借りて更新していたので、自分の端末を持つのはさらにあとの話になるが、とにかくこの頃初めて私はインターネットの海をのぞき込み、1年前に書かれた前出のテキストの存在と、その厳しい内容から一部ファンの間でちょっとした論争が起きていたことなどをようやく知ることとなる。

 インターネットに続いてSNSが行き渡り、情報の発信と共有がリアルタイムで行われるようになって久しいいまとなってはなんだか信じ難いけれど、93年から99年までの私のメジャー時代、ファンの人の生の声を聞くということはほとんど無かったように思う。ものすごく世間を気にしていたはずなんだけど、作品の反応をどうやって手に入れていたんだろう? レコ評とか? あるいは単純にCDのセールスとか? やっていたラジオ番組に、ネタハガキに混じって時々歌の感想が届くとうれしかったっけ、などと記憶を手繰りつつ、会社やスタッフに守られて、良くも悪くも内弁慶でお山の大将が許されていた時代だったんだなと思う。だから、インターネットを通じて初めて生々しい人々の声に直に触れて、新鮮だったし、衝撃もあった。問題の記事はふかぶかと胸を刺したし、かばう声もおなじくらい重かった。でもその時私はすでに、誰に何を言われたせいでもなく内弁慶でお山の大将の自問自答の果ての自爆的に敗北を受け入れていたので、もちろん凹んだけどそれらもろもろの声を受け止めることができた。1年前、迷いや混乱がまだほかほかと湯気を立てている時だったら、とてもじゃないけど無理だったなあと思った。ラッキー。IT革命もパソコンも全然興味なくてずっとほっといたおかげで、勝手に転んで勝手に起き上がった私ラッキー。なんかよくわかんないけど絶妙のタイミングで切り抜けた感があった。

 あれから22年!!

 長い時を経て件の記事を再び読み、誰に頼まれたわけでもなく、何の得があるわけでもなく、ひとりのシンガーソングライターを思い、「言葉の力を取り戻せ」と檄を飛ばしてくれたテキストの筆者に、あらためて心から感謝する。私のメジャーでのキャリアは決して自慢できるものではなく、テキストが書かれた頃はもうひたすら煮詰まって、不機嫌で、人のせいにしてまわりを傷つけてばかりいたのに、そんな私をあきらめることなく語るべき価値ありと思ってくれた人がいたということを、素直に誇りたい。ヒット曲いっこも無しに6年間6枚ものアルバムを費やして、とにかくてっぺんからどん底までとことん悩ませてもらったことにもしみじみ感謝する。私がその後20年以上も音楽を続けることができているのは、あの時期のしんどくて豊かな経験が丈夫な土台になっているからに他ならない。

 テキストには続きがあって、それは一旦音楽を離れたのちインディペンデンスのフィールドで活動を再開した私の、復帰作となったミニアルバム「新しい羽根がついた日」(2001.2.24リリース)について書かれたもの。タイトルは「敗者であることは勝者であることより難しく」。前の記事から2年余り、紆余曲折を経て私が再び言葉にこだわるスタンスに回帰したことを言祝ぐこのエントリーは、自分のPCでリアルタイムで読んだ記憶がある。完敗であったからこそもたらされた再生。わずかに残った誇りを抱きしめたこと。混乱の中で見えた希望。耳に残る「おかえり」の声。ああ、「羽根」からちょうど20年なんだな。

 時は流れ、年を重ね、時代は変わった。いま、ライブを見たり曲を聴いたりした気持ちがダイレクトに返ってくる環境、それはそれでやっぱりとてもうれしいし、やり甲斐がある。でも、賞賛も批判も関心も無関心もするすると流れて行くことに、いつしか慣れてしまっているような気もする。なるべく傷つかないように、見たいものしか見ていない気もするし、逆にあまりにたくさんの意見を目にしてしまうので、何を言っても突っ込まれそうで何か言うのが億劫になってる気もする。かつてないほど「言葉」があふれている世の中、そこで私は再び自分の言葉を見失ってるんじゃないか。自分だけの言葉をあきらめてしまってるんじゃないか。はからずもいま読み返すことになったふたつの古いテキスト。言葉の力を取り戻せ。その檄に私は応え続けることができているだろうか。目が血走るくらいに自分の奥底を見つめているだろうか。ほんとうに戦慄すべきは、そこに書かれていることが、いまなお充分に私をぎくりとさせる、ということだ。

 折しも災厄の時。先が見えない、という気持ちがなんとなく飽和状態に達しつつあるいま、あきらめてはいかんよー、と、神さまはいつもより早く南風を吹かせ、ついでに、しゃきっとせえよ、と、古くて新しい命題を突きつけていったのかもしれない。人生には時々、答え合わせの時間がやってくる。あの日のYesがいまはNoだったり、その逆だったり。いずれにせよ答えは生きていた自分の中にある。もっと言えば、振り返って「あの時生きていた」と言える自分の中にある。生きねば、と思う。いまここにいるということが、未来の答えになるために。

「人は人を見捨てないものよ。自分自身を見捨てるだけよ」
トルーマン・カポーティ「真夏の航海」より 

 まだだ。もうすこし、あとすこし、手を離さずに行こう。20年前、なんとなく半信半疑で、でもうれしくて死にそうになりながら、新しいアルバムを赤ちゃんをおっかなびっくり抱っこするみたいに手にしてた私に、「あと20年続くよー」って言ったらどんな顔しただろ。まもなく今年も、予告編の風に続いて、本物の春が来る。あの時私を再び飛ばせた「新しい羽根」は、新しくもないけど、まあ、そんなに古くもない(かな?)。