絶望の種類


110415

斉藤和義さんは、同い年でデビューも同じ年。
ちゃんとお会いしたことはないけれど、
同世代の中で素晴らしいミュージシャンのひとり。

話題の替え歌。
キャリアも実績もある音楽家が、
ご本人の責任で決断実行されたことなので、
それは最大限に尊重されるべきだと思います。

残念なのは、
あれを聴いて溜飲を下げたり、
憂さを晴らした人はいたかもしれないけど、
希望を持ったり、前向きになれた人はいたかなあということ。
あと、あたしも世間にケンカ売るのは好きだけど(笑)、
絶対やり返して来ないとわかってる相手に石を投げるようなのは、
やっぱちょっとしっくり来ないので、
否定もしないけど共感もしません。

今、
音楽に何が出来るのか、とか、
音楽家としてどのように行動するべきか、とか、
歌って来た意味や、歌って行く意味を、
多くの音楽家たちが考えていると思う。
斉藤和義さんの選択は、そのひとつ。

この1ヶ月余り、ピアノの前で、
自分が何を歌って来たのか、何を歌って行きたいのか、
ずっとずっと考えていた。
思ったのは、
それがどんなものであれ、絶望や悲しみがあるのなら、
そこがあたしの歌の居場所だということ。
絶望に種類なんてない。貴賤も、優劣もない。
被災地で苦しむ人に届けと願うのと同じように、
私は私の歌が、
東電の人にも、政府の人にも、
被災地や原発の現場で働く人にも届けと願う。
私の歌でなくてもいい。
あらゆる場所の、絶望に疲れ切った心に、
音楽よ届け、そしてもし出来るなら、
たとえ一瞬でも救えと、願う。

絶望に狂ったリア王に、
最後まで道化が付き従ったように。
私にとって音楽って、そういうもんだと、わかった。

信じていたものがある日倒れ、
そのあまりのはかなさに立ち尽くした春がある。
でも、騙されてたなんて思わなかった。
みんな、信じて、生きて、敗れただけだ。

そんなことを思いながら、
明日、札幌で歌います。