春を待つ


160311残念な結果に終わったなでしこ。
「試合に勝てないと頑張っていないと思われてしまうので、
これからも結果を大事にしていきたいと思います」
という痛烈な皮肉に満ちた宮間選手の言葉に胸を衝かれたのは、
仮にも世界チャンピオンになったことのあるアスリートに、
こんな毒を吐かせちゃいかんだろ、という悔しさとともに、
試合に勝てない、を、別の言葉に置き換えれば、
それはそのまま存分に身に覚えのある悔しさと淋しさだったから。

そんなことをひっそり考えながら迎えた、あれから5年、の日。
あの日の東京はよく晴れた空だったなあと、
細い細い雨を見て思い出しつつ、
家のことや歌のことに追われるごく普通の1日を過ごした。

あの日、私たちは、ものすごく悲しいものをたくさん見たけど、
ものすごく美しいものもたくさん見た。
たぶんそれまでも、
日々を暮らすということはそういうことであったのだろうけど、
あの時それをあざやかに思い知ったなあ、と思っている。
美しいものを守ろうとする汚れた手や、
汚れた手を躊躇なく握れる美しさ。
どちらが正しいかじゃなく、どちらも、いつも、ある。
どちらかだけでは、嘘だ。
その間に立って、悔しさに揺れていた5年間だったなあと思う。

あの日、小学校2年生の終わりだった息子は、中学校1年生の終わりになった。
私の5年と、息子の5年は、重さも、意味も、全然違う。
子どもの時間は積み重なって行くものだから、
どんどん新しい生き物に育って、振り返らない。
大人の時間はすり減って行くものだから、
悔しいけどついつい振り返ってばかりいる。

何事もなかったように、今年ももうすぐ桜が咲く。
思えばそれも悔しい。
毎年きれいで、悔しい。

どうやら春は悔しいものらしい(笑)
でも、悔しいから、待ってしまうのかもね。

今年もともに春を待てることに感謝しつつ。
いまだ癒えない悲しみに訪れる春が、
希望でありますようにと祈りつつ。