再びクラシック!


「行き先はボールに聞いてくれい」第6球

水だ乾パンだとさんざん騒がせといたあげくあっさりやってきやがった2000年。あくまで他力本願的社会転覆を心ひそかに期待していた今世紀最後のアナーキストシノハラミヤコとしては、はなはだ拍子抜けの年明けだったが、そろそろ正月気分も抜けよーかって頃、いきなり財布を落としてガックリ。やはり神さまは不埒な心を見逃さないらしい。

ここはひとつ心を入れ替えて、清く正しく(?)生きねば!と決意した私、最近久々に、クラシックピアノに熱中している。

こないだのライブで、改めて、あたしってピアノ下手よねぇと思ったせいもあるが、実家に帰った折、ふと思い立って、ベートーベンのソナタ集を引っ張り出して持って帰ってきた。

このソナタ集には、ベートーベンの1~15番までのソナタが収められているが、1番の1楽章を、私は高2か高3の時の発表会で弾いている。忘れもしない、右手の分散和音から始まるこの曲、当時から小心者でめちゃめちゃ緊張するタチだった私は、舞台に出て椅子に座った時、頭の中が真っ白になっていることにも気付かないくらいあがっていたようで、それっとばかりに弾き始めたところ、全くとんちんかんな音が鳴っていた。すでに慌てる余裕すらないほど舞い上がっている私は、むしろ冷静に、はて?、と手を止め、気を取り直し改めてさんざん練習したはずのその音に向かって、今度こそと指を打ち下ろした、がしかし、発表会用のコンサートグランドのハンマーが叩いた弦の音は、無情にもまたもやさきおとといの方角の音だった。

たしか、このあとやっと正解にたどり着いたように思うが、もしかしたらもう1回くらいやらかしたかもしれない。でもそれでむしろ度胸がすわったようで、まともに弾き始めてからはほぼ完璧な出来だったという記憶がある。

思えばプロのシンガーになってからも、レコーディングの歌入れの時、歌い始めちゃえば全然平気なのに、いつも出だしがヘタクソで、“出だし病”なんて言ってみんなで笑ってたっけ。その根っこは、こんなとこにもあったのね、としばし感慨にふける私であった。

そんな思い出の詰まった1番から始まるソナタ集、とにかくかたっぱしから弾いてみたものの、いや難しいのなんの、さすがにブランクはいかんともし難く、30分後には腕は痛いわ、譜面を必死で追いかけて目はちかちかするわ、へとへとになった。

私は普段自分で曲を作る時も譜面を書かないので、まずは譜面を見てピアノを弾くということに体がついていかない。あげく自分の曲の伴奏なんて、ほとんどコードしか押さえてないし、左手に至っては単音しか弾いたことない。こないだのライブの時も、「前髪」のイントロだけは、レコーディングの譜面を引っ張り出して練習したが、あれだけでゆうに3年は寿命が縮まったというていたらく。右手と左手が同時にあっちゃこっちゃ動くなんて!とほとんど半べその私。昔はけっこう上手かったんだけどなあ(なんちゃって)。

私がピアノを習い始めたのは、小学校に上がるちょっと前、5歳の時。やめたのは高校を卒業してしばらくたってからだったから、結局14年近くも習っていたことになる。・・・とここまで書いて、今スゴイことに気付いてしまった。あたし今33だから、19歳でやめて、14年。そっかあ、習ってたのと同じ年数がやめてから経っちゃったんだあ、ひゃあー。

ま、それはさておき。

最初は近所の友達が習ってるのを見て(たしかお豆腐屋さんの近藤けーこちゃん)、「あたしもならいたーい」ってかんじだった。

当時我が家には、むかーしの小学校にあったようなちっちゃな足踏みオルガンがあって、それは母のものだったのだが、その頃趣味で油絵を描き始めていた母はもともと音楽が好きで、しかし母の少女時代はピアノなんて、お金持ちの良家の子女の贅沢なお稽古事。それならせめて、と入手したオルガンだったらしく、私も物心ついた頃から、届かない足を踏ん張りながら、ブーピーブーパーとそのオルガンで遊んでいた記憶がある。

先生が大丈夫とおっしゃってくれたこともあったし、もちろんうちはお金持ちでもなんでもなかったので、いきなりピアノを買うというわけにも行かず、習い始めて数年間は、家での練習にはそのオルガンを使っていた。やがて、だんだん曲が難しくなってきて、ついに母の小さなオルガンでは間に合わなくなり(鍵盤数少ないしね)、我が家にピアノがやってくることになるのだが、ピアノ買った時に捨てちゃったんだろうなあ、今思えばあのオルガンとっときゃよかったなあとちょっと思う。

ま、そんなオルガンにまつわるいきさつもあったのだが、私がピアノを習い始め、その後小学校に上がった妹も習い始めるに至り、むしろ情熱を燃やしたのは母だった。

いくら自分から「やりたーい」と言ったとは言え、そこは子供のこと、「ねーねーねこかおうよーぜったいじぶんでせわするからさー」と同じ結果であることは言うまでもなく、宿題曲の練習、友達との遊びを切り上げていくレッスン、ただでさえ小学校に上がって遊びたい盛りの子供にとって、おもしろかろうハズがない(ちなみにアマチュアの頃、「オレもピアノ習っとけばよかった」とか「ちっちゃい頃一瞬習ってたんだけどやめちゃって」という男の子ギタリストやシンガーが結構いた。男の子の場合、「遊びたい」に加え「うえーピアノなんか弾いて女みてえ」と必ずジャイアンにいじめられてしまうので、大抵早い段階での挫折を余儀なくされる。実際私のまわりでも、長く続いた男の子は、ほんとにピアノが好きか、すごくうまい子だけだった)。

練習するしないで大ゲンカしたり、もうやめる!と口走ったこともあったが、しかしウチの母は頑張った。自分がやれなかった分という思いもあったのだろうが、根気よく私のお尻を叩き続け、その結果、小学校高学年になる頃には、私は改めて自分の意思で「ピアノが好きだ!」と思えるようになったのである。

もしも私がいつか子供を持って、その子が何か習い事を始めたとしたら、最低でも小学校の高学年、自分でそれが本当に好きなのか好きじゃないのかを判断出来るようになるまでは、首に縄をつけてでも続けさせたいと思う。あの時母が根負けして、小学校1、2年で私をピアノから解放してしまっていたら(母にとってもその方がよっぽど楽だったんだから)、少なくとも音楽家としての私はあったかどうか。

ピアノを「楽しい」と思えた小学校高学年から、中学いっぱいくらいまでが、多分私が最も熱心にクラシックピアノと関わった時期だったと思う。実際その時期の私は結構優秀で、小学校を卒業する頃先生から、「もしそういう気持ちがあるなら、(音大とかに行く為の)レッスンしてみる?」と言われたりした。私はよく覚えてないのだが、当時小学校で演劇部に入っていた私は「いいえ、私女優になりますので!」と言いたれたらしく、「すごくはっきり言ってたから、あきらめたのよー」と、大人になってから先生が笑いながら話してくれた。

ああ、川畑先生、お元気なのかしらん。

ご夫婦で先生をなさってて、わたしたちはそれぞれ「おじさん先生」「おばさん先生」と呼んでいた。おじさん先生は、オーケストラでコントラバスを弾く仕事もしていて、黒柳徹子さんのお父さんで、バイオリニストだった黒柳守綱さんもよくご存知のようだった。

中学の終わり頃から、ポピュラー(サザンとかユーミン)の楽譜を買ってきて弾き語りに目覚め、あげく自分で歌を作って歌うようになり、最後の方はすっかりクラシックがおろそかになってしまった私だが、やめる少し前、ベートーベンのソナタ「月光」(例のソナタ集の14番)の第1楽章を、おじさん先生が「すごくドラマティックに弾けてる!」とほめてくださったのを、今でも覚えている。

芸術家肌で、どちらかと言えば生徒に甘かったおじさん先生に比べ、普段は優しくて笑顔をたくさん覚えているけれど、レッスンでは小さい子にも厳しかったおばさん先生。先生の家に行くときはいつも、「今日はどっちかなあ」と思いながら歩き、レッスン場の窓からおばさん先生の姿が見えると、ひえーと思ったもんだった。「ほら、指がマムシになってる!(基本的に、ボールをつかむような形で指を立てて弾くのだが、最初のうちは、すぐ指が平べったく伸びてしまい、その状態を先生は“指がマムシになる”と呼んでいた)」「リズムしっかり!ヤンパパパン!(リズムを説明する時、よくタンタカタンとか言うが、ウチの先生はなぜかヤとパの組み合わせだった)」など、よく通る声でしかられたことを思い出す。

そして、三つ子の魂百までとはよく言ったもので、今久々にクラシックを弾いてみると、あの頃先生が言っていた言葉たちがあざやかに甦ってくるのを感じる。肩とひじの力を抜いて、手首を柔らかく。強弱をはっきりと、でも強い音をぶつけない(力まかせに叩かない)。分散和音はひとつひとつの音の粒をそろえて、なめらかに。リズムがでこぼこにならないように、情感を込めて、歌って、歌うように弾いて。

バレエや落語もそうだが、いわゆる古典ものが解釈の芸術であるのは周知のこと。ベートーベンの演奏が音源として残っているわけでもなし、ただ譜面通り間違えずに弾いたって、おもしろくもおかしくもない。

そういう意味では、ピアノの発表会というのは結構残酷なもので、私も高校生ぐらいになって気付いたのだが、長くやってる人が難しい曲を弾いても、何とも思わないこともあるが、反対に、まだちっちゃくてごく簡単な曲を弾いていても、うまい子はすでに、思わずはっとするほどうまいのだ。限界のある努力が、ある。それは、やる意味がないと言うこととは全く別のことだけれど。

最近クラシック界は、フジコ、というとんでもない天才妖怪おばさんピアニストの出現に沸いている。注目されるきっかけとなった教育テレビのドキュメンタリーを私も偶然見ていたのだが、この謎のおばさん(と言っても芸大を出て、若い頃はヨーロッパでかなりブイブイ言わしたらしい)のピアノには、確かに、おはこは、リストの超絶技巧曲「ラ・カンパネラ」(ま、ギターで言えば、イングウェイ、スティーヴ・ヴァイクラスのバカテクものってかんじ)。結構ミスタッチもあるし、弾ききれてないとことかもあったりするのだが、テレビを通じてでさえ圧倒的な存在感と美しさで、おいおい何だかよくわかんないけどとにかくすんごいもん見ちゃったぞ、とひとりでコーフンしてしまった。

そのフジコ氏が、インタビューでこんなことを言っていた。

「誰の方がうまいとか、そういうの関係なくて、ただあたしはあたしの弾く「ラ・カンパネラ」が気に入ってんのよ」

古典という過去と現在がせめぎ合う芸術は、結局のところそれ自体の生命力だけで生き残ってきたわけではなく、その時どきにそれに関わった人達の、特別な、あるいは全く特別ではない人生を否応なしに映し出すことで受け継がれてきたに違いない。フジコ氏は、「ショパンとリストを弾く為に生まれてきた」と評されているらしいが、多分それは逆で、フジコというリアルタイムを表現する為に、ショパンとリストが選ばれた、と言う方が正しいと私は思う。そして、更にパラドキシカルに考えるならば、すぐれた表現者を得るたびに、今日古典と呼ばれる作品たちは、初演から何百年を経て、再び時代の最先端に躍り出ることが出来るのだ。

えーっと、別に古典について語るつもりはなかったんだけど…(笑)。でもフジコのピアノは一聴の価値あり。

とりあえず私の新たなピアノ・レッスン、例のソナタ集の中から、少々無謀とは思いつつ、8番「パテティーク」を課題曲と決め、目下第1楽章を練習中である。2、3楽章ともに有名な曲なので、クラシック好きの人はすぐわかると思うし、聴けば、ああ、と思う人も多いと思う。改めて弾いてみると、ほんとに素晴らしいメロディ、そして完璧な構成である。やっぱりルイードウィッヒおやじはただものではない(当たり前だ!)。

それにしても、練習してすこしずつ上手になると言うことが、こんなにうれしくて楽しいものだなんて!難しい装飾音符がきれいに決まったりすると、イエ~イってかんじ。とりあえずの目標は「パテティーク」制覇。次は15番の「田園」に挑戦しよう。いつか、このソナタ集、全曲制覇出来るかなあ。

母の小さなオルガンから始まった私の音楽の旅は、自分の歌も含め、まだまだ真っ最中なのである。

last up to date 2000.2.28