第65球
「超独断と偏見による
シノハラミヤコ的少子化問題レポート」
家の近所を自転車で走っていた時のこと。前方に、赤ん坊を乗せたベビーカーを歩道沿いの家に入れようとしている若いお父さんがいた。車輪が縁石かなんかに引っかかってるようで、ちょっともたもたしていた。今どきのベビーカーはものすごく高性能だが、扱いにはやはりそれなりに慣れとコツがいる。お母さんご用事かお仕事か、でなきゃお休み中で、今日はお父さんの番なのかしらなどと思いながら、彼らの背中側の横断歩道を渡ろうと信号待ちで自転車を止めると、その若いお父さんはものすごくあわてて、す、すいませんっ、すいませんっ、と謝りながらベビーカーをガタガタと門の中に押し込んだ。自分たちが道を塞いでしまって私が通れないと勘違いしたらしい。べーつに1時間も待たせるわけじゃなし、とオバサンは図々しいので、そんなに焦らなくてもいいのに、そんなにベビーカー揺らしたら赤ちゃん起きちゃうよー、とちょっと笑ってしまったが、ふと、同じような状況で、舌打ちされたり、邪魔だと言わんばかりの視線を投げつけられたことがあるのかもしれないなあと思って、その若いお父さんの慌てっぷりにちょっと胸が痛くなった。
私は子乗せ自転車を買うのが遅かったので、家族で車でお出かけは別にして、息子がちっちゃい時はどこへ行くにもベビーカー。街も駅もバリアフリーなんて嘘ばっかなので、しょっちゅう階段や段差を爆破したい気分になっていた。現在の我が家の最寄り私鉄駅も、改札は地下、駅は地上、しかしエレベーターもエスカレーターもなしで全部階段というサイテーの駅。ウチの息子は最近歩いてくれるようになって楽になったが、こないだも電車を降りたら、ホームから改札に下る階段のすこし手前で、寝てしまった子供を乗せたベビーカーと若いお母さんがぽつんと立ち止まっていた。その横を人がどんどん通り過ぎて行く。どうせ誰も手伝ってくれないし、気合い入れて髪振り乱して十数キロを持ち上げて階段降りるんだから、みんな行っちゃってからにしよ、と若いお母さんの顔に書いてあった。特にいらつく様子もなく、いつものこと、ってかんじで。わかるわかる、と、しばらく前までの自分の姿がダブってしまって、あらかた人がいなくなったところで手伝ってあげたけど、感謝されつついつもひとりで持ってるから手伝ってもらうと持ちづらい、みたいな戸惑いも伝わってきて、なんか本末転倒(笑)。
ちょっと極端な例かもしれないし、地方だとまた事情が違うのかもしれないが(05年の日本の出生率は1.25。東京だけだとついに1.00を割り込んで0.98)、周囲に気兼ねしつつベビーカーと格闘する若いお父さんを見て、そんなことを一気に思い出していた。もちろん、思いがけない他人のあたたかさに触れることもあるし、それ以前に傍若無人で腹の立つ子連れもいる。でもやはり子連れで行動していると、斜め上からの冷ややかな視線、のようなものを感じることは多い。ファミレスなんて大嫌いだったのに、少々汚しても騒いでも何とかなる、という気安さで、ついつい多用するようになってしまった。何より、独身時代の自分だったら、道を塞ぐベビーカーに間違いなく舌打ちしただろうと自信を持って言えるから、なお悲しい。そのような水性水なしキンチョール的な冷ややかさの中で、現代の親たちはいつしか過剰に萎縮し、わけもなく恐縮し、邪魔にならないように、迷惑をかけないように、汲々としているように見える。子供がいると子供がいる友だちが出来たりして、まわりにいつも子供がいるのであまり実感出来ないのだが、今や「少子化」は内閣に担当大臣を置かねばならないほどの国家的問題である。07年からと予想されていた人口減少は05年から始まってしまい、このまま減り続けると2100年には日本の人口は現在の約半分、6000万人ほどになるだろうと言われている。いちおうあれこれ対策が講じられているし、女性の社会進出、晩婚、未婚、社会不安など、様々な側面を持つ「少子化問題」だが、現場のニンゲンとしては、子供を産む人が少ないから子供が減っているのではなく、社会が子供を望まないから子供が減っている、という方が言い方としては正しいと思うのだ。ではなぜ社会は子供を望まないのか?
たとえばここ10年ほどを考えてみて、何より変化し、進化したのはいわゆるITということになるだろう。初めて携帯電話なるものが現れたのは87年だそうだが、私がデビューした13年前(93年)、よく言われるが携帯電話はまだコードレスフォンの子機くらいの大きさで、しかもアナログ。本体も通話料も高くて、会社の社長とか、うーんと偉い人だけが持つものだった。現場のマネージャーたちはポケベルを持たされ始めていて、出先でもつかまえられてしまうことをうっとおしがってた人も結構いたように思う。それがあれよあれよと言う間にみんな携帯電話を持つようになり、誰もが携帯がないと仕事にならないと言わんばかりの時代に突入。やがてパソコンも普及し始め、私がメジャーを離れるすこし前、98年頃、私のいた事務所でもネット環境を整備して各アーティストのホームページを作り始めていた。IT革命。でもまだまだ創世記。当時ウチのマネージャーは、マックに取り込んだ画像を、大きいのだとひと晩がかりで開いていた。自分が動かずしても居ながらにして情報を得たり発信したり出来るようになり、次に問われたのはその情報を処理するスピードである。私が00年に遅ればせながら初めてパソコンを持った時、通信手段はもちろんダイヤルアップ。単純に電話線を使うやり方で、当然のことながらインターネットを繋いでいる時は電話を使えなかった。今や繋ぎっぱなしは当たり前で光ファイバーのご時世。電話線? 何のことやらわからないという人もいるかもしれない。
インターネットは瞬く間に時代を制圧し、本のページをめくるような気安さで、膨大な量の情報を提供してくれるようになった。今これを書いていながらも、出生率とか、ケータイっていつからあるの?とか、一瞬で調べられてしまって、便利で溜め息が出る。実はシノハラミヤコというはんぱもんのシンガーが、ほとんど自給自足でここまでやってこられたのも、ホームページを通じて情報を出し、電子メールでどかんとお知らせを送れるおかげである。10年ずれてたらハガキのダイレクトメールしかなくて、ハガキ代だけで即パンク、ライブやろうがCD作ろうがそれを伝える方法がないという状況に陥ってたのは間違いない。まさにInfomation technology、バンザイ、というわけで私はインターネットに足を向けて寝られない。ま、これは余談。
より多く、より速く、の次は、より小さく、である。言い換えれば、出来るだけ多くの情報を素早くコントロール出来る、より小さいハード、ということ。基本的にハードに全く興味のない私はこの方面はからっきし駄目で、携帯で音楽が聴けると言われても、そんなもんいつどこで聴くの?とか、おサイフにもなるって、トイレに落としちゃったらどうなるのとか、iPodには音楽なら最大15,000曲、写真は25,000枚、ビデオは150時間入るらしいんだけど、それって何年がかりで見たり聴いたりするの?とか、勝手にシャッフル!? 苦労して曲順決めてんのになんてことしやがるとか、黒柳徹子サン並みのはてなちゃんになってしまうのだが、、何もかもがホントに小さくなった。ハードディスクやCD-R、DVDの普及で、ビデオテープもあっという間に姿を消すだろう。テレビの画面は大きくなり続けているけれど、薄型になって場所を取らないという意味では、ブラウン管の比ではない。ワンセグの登場で、小さい方の進化も著しい。出来るだけ多くの情報をより小さいハードで素早く自由にコントロールすること。時代のニーズに潜むキーワードは、効率、である。
長々と書いた。で、子供。
私が知る限り、この世のありとあらゆるすべての中で、いっちばん効率が悪いのは子供(もしくは子育て)である。どんなに時代が進化しても、インターネットで未来すら覗けるようになったとしても、生まれてすぐビールが飲める赤ん坊はいない。あっという間に大きくなると言いつつ、子供はゆっくり育つ。びーびー泣いてばっかから始まって、首がすわって、笑うようになり、寝返りを打ち始め、ものを食うようになり、おすわり、つかまり立ちを経て自力歩行に至り、言葉を覚え・・・まだまだ続くその過程のひとつとして省略されることはない。立った、歩いた、笑った、しゃべった、劇的な瞬間はその都度用意されているが、ひとつひとつを結ぶ日々の報われなさっぷりはそれなりに壮絶である。今どき食器すら食洗機が洗ってくれる時代だが、子供を育ててくれる家電製品はない。子供(もしくは子育て)に関する手間ひまのかかり方は、布おむつが紙おむつになったり、市販のベビーフードなどが増えて便利になったとは言え、基本的には洗濯板で洗濯してた時代から変わっていない(変わりようがない)のだ。24時間365日休みなしギブアップなしの無制限一本勝負。頭に来ようが投げ出したくなろうが関係ない。ほっといたら死ぬんである(ほっといて死なせる人もいるけど)。そんなことわかってるよ、という人はぜひいちどやってみるといい。オトナの思い上がりっぷりと、自分の辛抱強さや我慢強さの天井があまりに低いことに愕然とすること請け合いである。しかも、本能のままに泣き、笑い、傲慢に要求し、容赦なく傷つけるこの制御不能な生き物、だんだんでかくなる。65インチの液晶アクオス欲しいけど置くとこない、どころの話ではない。いずれひと部屋寄越せと言いやがるのである。場所を取ることこの上ない。そして何よりもおっそろしいことに、子供(もしくは子育て)というものに関して、答えは存在しない。成人したら終わりなのか。出世してお金持ちになってくれたら成功なのか、犯罪者になったら失敗なのか。そんなに簡単なはずがない。子供を持って以来、犯罪報道を見て被害者を思う痛みは倍増したが、同時に否応無しに加害者も目に入って来るようになった。犯人にも、親がいる。死刑にしろ、と怒りに目がくらみながら、もし自分の子供だったら、世界中に罵倒されながらでも生きていて欲しいと願うだろうかと思う。善も悪も、正義も無法も、我が子、という呪縛の前には無力だ。堂々巡りの、二律背反。親になるということは客観性を失うことだ、と佐野洋子さんがエッセイで書いていたが、ホントにそう思う。親にごはんを食べさせてもらえずに、3歳でたった8キロしかなくて(ウチの息子3歳で14キロ)死んじゃった子のニュースを見る。冷蔵庫を開けると、ハイチュウだのきのこの山だの果汁グミだのヤクルトだの、息子の好きなお菓子が山盛り。あの子はいっこでも食べたことあっただろうかと滂沱の涙。先のワールドカップ、サプライズ選出の巻選手。ドイツへ駆けつけ息子と同じユニフォームで声援を送ったご両親の誇らしげな顔を見ながら、行く行くあたしも行く家売ってでも行く、と妄想感涙。この世のすべての喜びや悲しみが、子供、というコンセントを通じて、我が事として電気みたいにビリビリ流れ込んで来る。もうたまったもんじゃない。かと思えば、手間ひまかけてそれなりに愛情注いで育てた挙げ句、子供に殺される親のなんと多いことか。一番手のかかる、逆に言うと一番かわいがられる生まれてからの数年間を、きれいさっぱり忘れてしまうようにニンゲンは出来ている。ま、考えたら出来ないし、考えてるヒマなんてないのが子育てというものだが、どこまで行っても親は報われないということらしい。
極端に効率が悪く、答えがはっきりしない。手間ひまかかるわりには報われることが少なく、しかも場所を取る。コンパクトでスピーディを身上とするこの時代に、完全に時代に逆行する子供(もしくは子育て)というものが嫌われるのは理に適っている。インターネットで一発即答に慣れ始めた人類にとって、何年というタームで何かを見守れというのは、もはやしんどいことなのかもしれない。
私は93年にデビューし、6年間のメジャー暮らしで6枚のアルバムと9枚のシングル、1枚のマキシシングルを発表した。1曲のヒット曲もなしに、である。あの頃はまだそういうことがありえた。辛抱してじっくり答えを待とうという空気が、あるいは結果が出なくてもあるべきものはあるべきものだとする存在に対する価値観のようなものが、ほんのかすかだが残っていた。インディーズになってから知り合った、私よりはるかに才能にあふれた99年デビューのシンガーソングライターの契約は、たった1枚のアルバムでいともたやすく切れた。誰もが答えを欲しがり、生まれた時から大人であることを望んだからだ。音楽というフィールドに於いても、育てる、という作業は希望と気力を失いつつあるのだろう。
軽い気持ちで書き始めたのに、次から次へとネガティヴが噴出してきて、我ながらぐったりしている(笑)。もちろん、それらすべてがかるーく火星あたりまで吹っ飛ぶくらい、子供はオモシロイよ、ためになるよ、と思っているから書けるのだが、だからと言って、ぜひとも子供を持ちなさい、と簡単に言うことは、やはり出来ない。特に、仕事を持っている人や、何か自分自身のことで忙しくしている人には。ホントに大変だから。私の場合、自分もダンナも実家が東京でじじばばが健在だったので相当助かったし、ダンナが自営のグラフィックデザイナーという商売で、普通のお勤めに比べればはるかに時間の融通が利いた。そうでない人もたくさんいる。子育てという密室をなめてはいけない。かと言って、助けの手もあって、お金もあって、おうちもあって、万全の態勢だから子供を持つということでもないのだろうが、いずれにせよ、女たちはもう簡単に子供を持つには賢過ぎるのだろうと思う。そのある意味不当なリスクに、いつしか誰もが気づいてしまった。かつて当たり前だった子供を産み育てるという行為は、今や困難のつきまとうチャレンジへと変わりつつある。増えてくれとは言わない。女だけに許されたその挑戦権を果敢に行使する人が細々とでも居続けてくれることを願うばかりである。私にとっても、子供を持つ、ということは様々なジレンマを含んだ大いなるチャレンジだったけれど、私は私の人生に、子供、というモンスターが登場してくれたことに、今心から感謝している。子供を抱きしめて安心させてあげなさい、とよく言うけれど、あたたかくてやわらかいものを抱きしめて安心するのは大人の方だ、と私はいつも思う。日々がどんなに徒労に満ちていようと、その甘い喜びは、言葉では言い表せない、と言うか、やってみないとわからない。ちなみに私が知る限り、ひとりいる人のほとんどが、ふたり目を欲しがっている。ひとりっ子じゃかわいそう、とかいうんじゃなくて、単純にもうひとり欲しくなるんだと思う。やってみると、わかる。
さんざんネガティヴを並べておいて、ポジティヴはこれだけかい、と改めてぐったりしつつ、私に言えるのはその程度だ。
皮肉にも生活や文化の進化は「少子化」という私生児を産むこととなった。父親は地球ではないかと、私はひそかに思っている。時代の別の側面「環境」にとって、結局いちばん有害なのはニンゲンだからである。