第62球
「歌うこと」

 歌う前にまず曲を書くという作業があるせいか、自分のことをあまりボーカリストだと思ったことがない。でも、何が好きかと聞かれれば「歌うこと」と答える。私はピアノという楽器を心から尊敬し、愛しているが、アマチュア時代を含めてこれだけ長くピアノの弾き語りをしていながら、これだけ上手くならないのは、心のどこかでピアノを手段としてしか捉えておらず、向上心に欠けるからだ。かと言っておろそかにしているつもりもなくて、私の歌にとって最も親密な相棒であることは間違いないが、私がピアノを弾くのは、演奏するためではなく歌うため。要するに伴奏以外の何ものでもないので、難しいことをする気が全くないということである。

 アマチュア時代に弾き語りをしていた時は、いつかこの歌を有名なアレンジャーにバンドアレンジしてもらってCDデビューするのだわ、といつも思っていた。今ピアノだけで歌っているあたしはそうなるまでの仮の姿。このスタイルはあくまで暫定政権。やがてデビューが決まり、有名なアレンジャーにアレンジしてもらい、憧れのミュージシャンたちに演奏してもらい、ライブもバンドでということになり、夢は叶った。私の間違いは、ピアノを弾かずに歌だけ歌ったらもっと上手く歌える、と思ったこと、そして、バンドアレンジすれば、もっと“いい曲”になると思ったことだ。実は自分がひどく不器用で、ピアノを弾こうが弾くまいが実はひどく歌が上手くないということを認めたくなくて、愚かな私は苛立ちの矛先を周囲に向けた。アレンジが悪い、ミュージシャンが違う、スタッフが頼りにならない。ひとりだった。デビューして、バンドになって、歌に関わる人数は増えたけれど、私は私を閉じたままで、結局弾き語り時代同様、ある意味弾き語り時代よりもっとひとりだった。器ばかり豪華にしても中身は変わっていないのだから、まわりにこだわればこだわるほど違和感が増すのは当たり前のこと。問題は歌なのだ、とついに認めざるを得なくなるのは、5枚目のアルバム「Vivien」を制作する頃。生まれて初めて歌を「感情」ではなく「技術」としてとらえ、新しいボーカルスタイルを確立するべく、試行錯誤の日々が始まった。その時の鬼教官が、現プロデューサーの中山社長である。新曲を突っ返され、歌入れでいくら歌ってもOKを出してもらえず、何度やっても出来ない自分にはらわたが煮えくり返る思いで悔し涙を流した。食わず嫌いだった洋楽を聴きまくり、オアシスからキャロル・キングまで、歌詞カードを見ながらひたすら歌った。別に洋楽っぽく歌えばカッコいいということではなくて、メロディと言葉の関係はもともとスピード感のある英語という言語の方が検証しやすいのだ。言葉のはめ方と歌い方ひとつで、劇的にメロディが躍動し始めること、音符ではなく休符を意識し、アクセントとシンコペーションを誠実に守ること、そうやって無理なく生き生きと流れるようになったメロディを、感情的になるのではなく、感情を込めてていねいに歌うこと。頭でわかってから実際出来るようになるまでは何年もかかり、その途中で私のメジャーでのキャリアは終わりを告げるが、そのようにして目から鱗の気分で「歌うこと」と向き合い、悔し涙とともに学んだ97年から98年にかけての日々が、その後私を長く歌わせてくれる礎となった。

 インディペンデンスとなってからの弾き語りは、確信犯である。活動再開当初こそおっかなびっくりではあったが、すぐにわかった。あれ、これで、充分だ。全部なくなって、残ったのは古い相棒のへたくそなピアノだけで、でも、そこで歌えた歌は、かつてどんなすごいミュージシャンをバックに歌った歌より自由で、輝いていた。伝えたい気持ち、そして伝わっているという実感に、私は誰のためでもない、自分が「歌うこと」への自信を得た。そして歌とピアノだけの濃密な3枚のアルバムを作り、ごく自然にバンド録音へとシフトした。ここ何年も、レコーディングにあたって私がすることは、曲を書くことと歌うことだけである。アレンジには一切関わらない。テンポやリズムにもこだわらない。リハーサルで演奏に合わせて歌ってみて、歌い方を決め、しっくりこなければメロディや歌詞を直す。歌い方さえ決まれば早い。今回の「レイディアント」10曲中、歌入れで改めて歌い直したのは3曲。あとは、演奏を録音する時に一緒に歌ったいわゆる仮歌がそのまま採用になった。
 ライブもバンドでやろうと思ったのは、弾き語りでもバンドでも、もうどっちでも関係ないと思ったからである。だとすれば、圧倒的に表現の幅が広がるバンド編成で、と思うだけである。歌だけでもない。演奏だけでもない。双方がお互いに耳を傾け合って初めて生まれる、音楽。去年の秋の久々のバンドライブで、じわり
と沁み込むように思った。ひとりではない。やっと、私は、ひとりではない。

 いずれにせよ、信頼出来るスタッフとミュージシャンがいるからこそのことである。デビューから13年、私は音楽を通じて多くを失ってきたけれど、キャリアの晩年に、このような圧倒的な信頼関係のもと音楽を創ることが出来たことに、万感を込めて感謝したい。そして私を、どんな紆余曲折の中でも「歌うこと」に留まらせてくれたオーディエンスの皆さんに、心からの信頼とエールを。何を隠そう昔の私が一番信用していなかったのは、客席だった。どうせ、みんな、勝手なこと言って、いつかどっか行っちゃう、と移り気な世間を斜に構えて見ていた。そう思っておくことで本当に去られた時のショックを緩和したいという、小心者の防御本能だったけれど、実際たくさん去ったけれど。わたしはいつだって読みが甘いのだ。

 今を語ろうとすると、どうしても遡って行くことになる。あの頃は、と思い出して、バカだった、と苦笑するのはたやすい。若さというものは大概、弱さを隠そうとしていたり認めようとしなかったりする、見え見えの悪あがきのことなので、時間が経って振り返れば誰だって歯がゆく思うものだ。でも私は知っている。若い日の未熟や無謀をほろ苦く笑うことで、今度はあの頃の理屈を越えた否応無しの勢いや、無茶を通せた正体不明の情熱の喪失から目をそらそうとしていることを。
 ニンゲンはいつだって、見たいものだけを見ようとする勝手な生き物だ。若い時は若い時のように。年を取れば年を取ったように。私は今年、40になる。

 いつまで踏み止まれるか、いつまで闘えるか。もはやたやすく来年の桜の話をするほど、さすがの私も図々しくはない。
  自分のことをあまりボーカリストだと思ったことがない。でも、何が好きかと聞かれれば、やはり「歌うこと」と答える。2006年春の私をぜひ見ておいて欲しい。

LAST UP DATE 2006.4.20