第59球
「2004年過ぎ去りし春の記憶」
act.3 晩春〜種と果実をつなぐもの、そして「us」へ〜
2004年2月、「種と果実」に続き、セルフカバー第2弾「everything is passing」のレコーディングに間もなく突入しようという頃、1歳2ヶ月だった息子の具合が悪くなった。急に熱が出て、目が腫れぼったくなり、体中に赤い発疹。近所のかかりつけの小児科で診てもらったところ、大丈夫だとは思うけれどもしかしたら感染症かもしれないので、いちおう大きな病院で検査した方がいいと言われた。疑われたのは、川崎病、というやつである。公害病の?と思わず聞き返してしまったが、そうではなく、川崎富作というお医者さんが見つけたので川崎病というのだそうだ。原因は不明で、主に4歳以下の幼児が罹る。5日以上続く発熱、発疹、目の充血など幾つかの特徴的な症状があり、入院治療が必要。やっかいなのは、全身の血管が炎症を起こすため、悪くすると心臓に後遺症が残ってしまうということだった。蒼くなって総合病院へ。血液検査をし、いちおう川崎病の疑いはあるがまだ症状がそろわないのでとりあえずは様子見ということに。もしビンゴなら目が真っ赤に充血し、舌が苺のように腫れるので、注意して見ているようにと言われた。病院を出たところでスタッフから携帯メールでレコーディングについての連絡があり、龍ちゃん悪い病気かも、と返信したのを覚えている。2月にしては暖かい、よく晴れた午後だった。
結局熱は簡単に下がり、発疹も数日で消え、その時点で川崎病の疑いはなくなり、一週間ほどで息子は元通り元気になった。途中すこしおなかをこわしたので、まあおなかの風邪っていうのがいちばん説明がつくってことかなあと医者も笑っていた。私は無事にレコーディングを始めることが出来、3月は百歌ツアー、そして4月には仙台・東京ワンマンと、春を乗り切ることが出来た。
いつも息子を預かってくれる実家の母は、私があまりに忙しいのを見かねるとたまにキレる。
「どっちが大事なのっ」
どっちも、と私はうつむいて黙ったまま胸の中でつぶやく。
川崎病騒動で痛感したのは、そうなったらもはや選択の余地はないんだ、ということだった。最低でも2週間の入院、もし心臓に後遺症が残れば先の見えない闘病生活。
私が歌い続けるということは、私の気持ちがどうのではなく、歌い続けられる状況がたまたまあるというだけなんだと、私はその時初めて知ったのだった。息子が健康であること、夫が許容してくれていること、子守りを引き受けてくれる祖父母が健在で、自分の実家が自宅から比較的近いところにあり、夫の実家も23区外とはいえとにかく東京にあったということ。このうちのどれひとつが欠けても、私は歌えなかっただろう。歌いたいとか、いい歌が書けたとか書けないとか、そんなことは屁の突っ張りにもならない。ほとんど奇跡なんだと思った。そしてこの先これらの条件が維持される保証はどこにもないんだと思ったら、急に細い糸の上に立ってふらふら揺れているような気がした。
思うように声が出なかったこと、仙台公演が行われた4月11日の晩、好きだった作家の鷺沢萌さんが亡くなっていたこと。
2004年の春を締めくくったワンマンライブの記憶は、深く静かな喪失の感触。
94年の最初で最後の全国ツアー以来10年ぶりの仙台ワンマンは、たった3曲目で声が裏返ってしまったショックから結局立ち直れないまま、ベストは尽くしたけれど個人的にはほろ苦い後味。ワンマンの実現に奔走してくれた東北放送やキョードー東北のスタッフとともに、打ち上げは地元の花見の名所西公園夜桜見物。衰えを突きつけられたという思いで見上げた満開の桜を、私は一生忘れないだろう。
環境を含め、歌うことをコントロール出来ないという思いに、私は臆病になっていたかもしれない。東京公演は、ネガティヴな饒舌。息が尽き、歌い切れなかった「秒針のビート」。家に帰ってから号泣した。ニュースステーション最終回久米宏さんの引き際、鷺沢さんの自ら選んだとされる死。あざやかな終焉のイメージ。HPにBBSを設置した時から覚悟はしていたが、ライブレポートがほとんど来なかったこともこたえた。やはり私はあの晩誰の心にも何ひとつ残せなかったんだと、悲鳴を上げたくなるような気持ちで思った。
それでも、昔の私だったら、ただ、歌いたい、という気持ちだけでいくらでも足元を固め直すことが出来ただろう。メジャーとかインディーズとか関係なく、歌うということに於いて、私は常にひとりだったから。しかし息子の川崎病騒動で、もはや二度とひとりではありえない、という事実を痛感し、その事実は私を動揺させ、体力的な衰えを実感したことも重なって、多分すこし弱気にさせた。一口で言えば、腹が括り切れていなかった2004年春、ということだろうか。しばらくのちに恐る恐る東京本番のDVD-Rを観て、なんだ悪くないじゃん、などと思った私は結局懲りないわけだし。
声、というのは不思議なもので、自分に聞こえている声と、人に聞こえている声は結構違う。私のように、長年録音されたりオンエアされたりしている自分の声を聴き慣れているともうさほど違和感はないが、昔留守番電話というものが出たての頃、応答メッセージの自分の声を聞いて、ヘンな声!と思った人は多かったものだ。自分に聞こえる自分の声は、頭蓋骨に響いている声なので、実際外に聞こえている声とは違って聞こえるらしい。ライブの時風邪を引いて、参ったこの鼻声、と思うものの、あとで録音されたものを聴くとそうでもなかったりする。昔は自分に聞こえている声にとらわれて、ああもうなんなのよ!とか思ってイライラしたが、結局そうやって精神的にダウンになる方が歌にはマイナスだと気付いて、今は多少鼻声だろうが荒れた声だろうが気にしないことにしている。自分が思い描く自分なんて、所詮その程度のもんだ。自分が気にするほど、他人は気にしちゃいない。
自分に見える気持ちにはまってしまうのはよそうと思った。内心忸怩たる思いを抱えての2004年春を終えて、ひとつ吹っ切れたような気がする。世の中には頼る実家も家族もない人がたくさんいる。私には、あった。そして、歌っている。その事実をシンプルに受け止めたいと思った。恵まれた環境に甘えるのではなく、感謝しながらベストを尽くしたいと思った。
そして、突き抜けきれなかったワンマンの中で、ただひとつ、新装なった天井の高いO-Eastのステージから見えた風景はとても素敵だった。あの風景をもういちど見たい、という思いだけで、私は初めてスタッフに自分から、来年もやりたい、と言った。
2005年の年明け、遅々として進まないニューアルバムの曲作りの日々。過去の未発表曲を含め、ある程度頭数はそろっていたが、いまいち決め手に欠けるという状態。あきらめかけた私に、スタッフが言った。「あと何枚アルバム作れると思う? 一枚でも納得出来ないもの作ってる余裕なんて、ないよ」。すべてが、なんてはかなくて、頼りない糸の上で揺れているのだろうと思いながら、だからこそこの瞬間を無駄にするべきではないと私は再びピアノに向かった。
そんなある日、ベビーカーを押しながら川崎病騒動で駆け込んだ総合病院の前を通りかかった。ああ、もうあれから一年かと思いながら、改めて当時のことを思い出した。あの時の、ひとりになれない、という戸惑いは、いつの間にか、ひとりではない、という自信に変わっていた。そして、「Journey」という歌を書いた。not
me but us。そうだ、私ではなく、私たちなんだ。
そのようにして、ふたつの春はつながれた。たったひと文字の、ありふれた、しかし困難な感情によって。
追記:私が結局ろくでもない歌(失礼)をあきらめきれないおかげで、この4月から息子は保育園に追いやられることとなった。毎朝置いて行かれるのを嫌がって泣かれるたび、ここまでしてやるべきことが果たして私にあるのだろうかと切り刻まれるような思いがする。歌うことで誰かを明らかに不幸にしているという思いは、誰かをもしかして幸せにしているかもしれないという思いをたやすく凌駕してしまう。新たなジレンマとともに、私は今年もO-Eastのステージに立つが、腹は、括っている、つもり。
>>>act1 >>>act2
|