第59球
「2004年過ぎ去りし春の記憶」

act.1 初春〜種と果実〜

 始めから、バンド録音で、と考えていたわけではなかった。たまたまスケジュール的にセルフカバーとほとんど同時進行となってしまったため、ピアニスト杉山・五十嵐両氏のみで、コンセプトの違う2枚のアルバムを立て続けに作るのはさすがに無理、そこでオリジナルアルバムはバンド、セルフカバーはピアノのみということになった次第。久々にバンドかあという程度で、その時は特に感慨はなかったように思う。去年の11月の話である。バンド録音ということで、ピアノだけでは表現しきれない(CDとして)と選曲から漏れていた「30's blue」や「422」も満を持してエントリーされ、この時点で「Time will tell」をのぞく9曲に「OUR」を入れて10曲が暫定ラインナップされていた。しかし「種と果実」というタイトルとコンセプトが頭にあり、なんとしてもタイトルチューンを、とギリギリまで粘って、ようやく「Time will tell」が書き上がったのは暮れも押し詰まった12月30日。リハーサル開始は年明け4日。出来た、というより、間に合った、と思うのが精一杯だったが、ともかくここに5年4ヶ月ぶりのバンド録音オリジナルフルアルバム「種と果実」全10曲の出走登録は完了した。

 妊娠・出産騒動で明け暮れた2002年から2003年。セルフカバーで何とかしのぎ、翌春のワンマンに合わせてvol.2の制作も決まっていたが、その前になんとしてもオリジナルを、30代をリアルに刻んだここ数年の集大成的なアルバムを作ろうと、スタッフと話し合っていた。子育ての予想をはるかに超えるハードさで、創作のペースがこれ以上ないほどに落ちる中、いつも以上に一期一会感は強かった。正直、これまで、と思ってもいいものを作ろうと思って臨んだレコーディングだった。

 制作期間は、リハーサル含めてわずか10日間。終わった時、「種と果実」のまわりはまさに死屍累々といった状態だった。東京ワンマンのMCで言った、戦争には勝ったけど味方も全員死んだ、というのは、冗談でも何でもなく、心からの実感である。2日間のリズム録り、初日は13時スタートで終了は翌朝6時。一日おいて2日目は13時スタートで終了は翌朝9時。「葉桜」は、朝日の射し込むスタジオで、五十嵐くんとふたりへろへろになりながら、せーの、で一発で録った(ほんとうは歌もそのまま使いたかったが、さすがに徹夜明けで声が終わっており、後日歌入れで録り直した)。両日とも休憩らしい休憩はなし。食事も各自体が空いた時にかき込むといった状態。終わった時は奇跡だと思った。ざっとそんなかんじである。メジャー時代にも朝までコースは年中あったが、1曲か、せいぜい2曲をとことん突き詰めて朝になるのとはわけが違う。そもそも2日で10曲のベーシックを録ろうということ自体無謀なのだが、ぶっちゃけ敵は予算。かくしてスタジオの中はゾンビだらけ、スタジオの外では制作スタッフが予算繰り特攻隊と相成った。

 ある程度予想しながら覚悟の上で始めたこととは言え、実際あまりの壮絶さに、リズム録りが終わった時点で私はこのレコーディングを始めたことをほとんど後悔しかけていた。足りない時間の中、集中力の限界を超えながらミュージシャンたちは拝みたくなるほどベストを尽くしてくれたけれど、そうであればあるほど、彼らの健闘に報いる何一つも私は持っていない気がした。スタジオからの帰り道、朝のラッシュがとうに過ぎた原宿駅で、もう息子はじいちゃんちでとっくに起きてるなあと思いながら、そのようにして家族に負担を強いていることもくるしくて、篠原美也子という半端物のシンガーのアルバムをここまでして作る価値が果たしてほんとうにあるのかと、私は呆然と考え込んでいた。あまりにもリスキーすぎる、と思った。しかしその一方で、これは素晴らしいアルバムになる、という沸き立つような興奮と確信もあった。だから、せつなかった。こんなにせつないレコーディングは初めてだった。

 きちんと歌いなさい、とプロデューサーの中山さんによく言われた。感情は感情として、クセや気分で流したりごまかしたりせずに、きちんと歌いなさい。インディペンデンスで活動を再開して以来、私は多分自分の気持ちをずいぶん流したりごまかしたりしてきた。折に触れて過剰に自分を卑下したのは、逃げ道を作っておくためだった。うまくいかなくなった時に、ほら、言ったでしょ? もう駄目なんだって、終わってるんだって、言ったでしょ?とケツをまくるためだった。百歌から始まった新しい道のりの中、ワンマン、レコーディング、私はその何ひとつに対しても、自分からやりたいと言ったことはない。これもまた、何かあった時に、あたしがやろうって言ったんじゃない、と逃げるためである。そのようにして実は私はずっと、音楽と正対することを避けてきた。自分にまだ何かが出来る、と認めることは、うれしかったけれど、同じくらい怖かった。でも、予感通りに「種と果実」が素晴らしいアルバムに仕上がった時、きちんとやりたい、と思った。それは、そうすることで少しでも周りの思いに応えようとかそういうきれいな話ではなくて、周り中に迷惑をかけながら、傷つけたり、傷ついたりするエゴイズムを善しとする確信犯になるということだ。それでもなお、もういちど、きちんと音楽をやりたい、と心から思った。なぜなら、このアルバムを作ることによって私は気付いてしまったから。何ひとつあきらめていなかったことに。忘れられなかったことに。

 リズム録りに続き、ダビング、歌入れ、TDも過激にタイトなスケジュールで行われた。歌入れは2日間だったが、実はリズム録りの時の仮歌のテイクが多く使われている。時間がなかったと言うよりも、荒っぽいが久々にバンドサウンドで歌う緊張感と喜びにあふれた仮歌の勢いに、歌い直したテイクがかなわなかったと言う方が正しい。中には深夜や明け方に歌ったテイクもあるので、ボーカリストとしてはいっちょまえに不本意だったりもするのだが、良くも悪くも全編ライブ感に満ちた、逃げも隠れもしないあたしの歌、ということで。

 歌詞カードのあとがきでもふれたが、今回のメンバー、ベースの高間くん以外は旧知のミュージシャンである。五十嵐くんとの付き合いは9年になるし、晶くんと太田くんは出会った時まだふたりとも10代の見習い少年だった。しかし彼らの「種と果実」での健闘ぶりを、単に付き合いの長さに重ねるのは正しくない。彼らは見知らぬアーティスト相手のタイトなスケジュールでも、やはり身を削って演奏しただろう。プロだからだ。世の中にはきっちりギャラ分の仕事をする人もきっといて、それはそれでプロ意識だと思うが、私の思うプロフェッショナルは、どんな状況でも同じことを「やってしまう」人のことだ。私はやっぱり古い人間なので、武士は食わねど高楊枝、が好きなのだと思う。対価が支払われないことに、支払えないことにイライラしても始まらない。結局は誇りの問題である。自分自身に対しての。

 これまで、と思って作ったアルバムに、これから、を感じてしまうあたり、やっぱり私は欲が深い。思えばメジャーの後半、やることと言えば週一度のラジオの収録だけ、という週休6日みたいな時期もあったのだ。よりにもよって、それだけでも24時間じゃ足りない育児という怪物と戦ってる時に、真面目に音楽やりたいと思ってしまうなんて、人生はうまく出来ている。濃く生きてないと濃い作品出来ないのだ。特にあたしの場合(笑)。

 順番から言うと、このアルバムは「Vivien」の次に位置する。実際には「Vivien」の次に「magnolia」というアルバムを作ったため、私の人生は何ともややこしいことになったが(「magnolia」というアルバムは単体で見ればよく出来たアルバムだが、クオリティは別として、私のキャリア全体の中では色々な意味でやはりイレギュラーな存在だと思われる)、「種と果実」の論理を引くまでもなく、このアルバムを作るためには、「magnolia」を作ったことも含め、5年4ヶ月という年月とその間の様々な出来事が必要だったんだと痛切に思う。別の言い方をすれば、99年に既に原型が存在した「秒針のビート」や「30's blue」を迷いなく歌えるまでに5年4ヶ月かかった、そしてその果ての「split」や「葉桜」の誕生を待たなければならなかった、ということだ。長い過程を経たことを悔やんではいないし、たどり着いた現在を私は素直に楽しんでいる。でももしほんとうに「Vivien」の次にこのアルバムを作れていたなら、とふとした瞬間思うのも事実だ。メジャー時代は終わらなかっただろうか、どんな人と出会っていただろうか、どんな人と出会えなかったんだろうか、どんな歌を書き、どんな歌を書かなかったんだろうか、ひとりのままだっただろうか、歌い続けていただろうか。「もしダラスが雨だったら、ケネディはコンヴァーティブルには乗らなかっただろうってことだ」(デニス・ルヘイン「ミスティック・リバー」より)。絡まり、ねじれ合うような日々も、振り向けばひとすじの道。ただしそれは選ばれなかった幾つもの扉をちりばめた道であり、それぞれの扉の向こうで、答えは永遠に沈黙を守り続けている。

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LAST UP DATE 2004.12.5