from Miyako Shinohara


シノハラミヤコのノーコンエッセイ
「行き先はボールに聞いてくれい」第34球

Extra Volume


 ハンセン病訴訟、熊本地裁の原告側全面勝訴の判決に対して、政府は控訴を行わないことを決定した。患者の隔離政策について、国会と行政の怠慢が厳しく指摘された判決だけに、小泉総理のコメントにもあったように異例の判断である。
 今回のポイントは言うまでもなく、正論を取るか、メンツを優先させるか、政府がどちらを選択するのかという点にあった。当然のごとく当初は、控訴をした上で和解による解決をという国家のメンツを優先させた方針が濃厚とされ、首相官邸前に押しかけた原告団でさえ、内心は駄目だと思っていたに違いない。それが一転控訴断念という結末。道路特定財源の見直しなど、ブーイング必至の問題が控える中、最大の武器である支持率を何としても落としたくなかった小泉総理のいわゆる「政治的判断」だったとしても、評価に値する英断だったと思う。
 控訴はせず、きちんと謝罪をし、患者・元患者に対する救済措置の準備に即取り掛かる。一方で判決に対する不服や問題点は、政府声明で明らかにする。要するに、それはそれ、これはこれという、世間では当たり前のやり方が政府にも出来た!というわかりやすさが
多くの共感を得たのではないだろうか。
 法律的にはこれでひとまず決着を見たハンセン病訴訟。残るは、心の問題、である。

 差別と偏見について考える。
 今回の判決は国の責任を糾弾すると共に、彼らを差別と偏見によって切り捨ててきた社会に対し、無言ではあるが猛省を促しているように思う。
 差別や偏見の根底には、まず、無知、がある。人間はいつも、優劣を問わず、未知なるものを恐れる動物である。知らないから、恐い。恐いから、見ない、関わらない。なるたけ後ろめたさを感じたくないから、いけないものというレッテルを貼って遠くへ追いやることを正当化する。様々な問題に対し、今なお人間はその原始的本能に打ち勝つことが出来ない。
 そしてそれを時には助長してしまう、教育、というものがある。物心ついてから太平洋戦争を経験した世代の中に根強く韓国人や朝鮮人に対する蔑視があるのは、そのようにがっちり教育されたからであり、また、教育次第では天皇を神だと信じることすら可能だということは、わずか60年前に立証済みである。IT革命が叫ばれ、これだけ情報が豊富になった21世紀を迎えてなお、進化しようとしない社会の側面の現実を、ハンセン病訴訟は突きつけてきた。
 ではどうするか。知ることはもちろん大切なことである。エイズに対する理解を求めるキャンペーンのコピーは「知るワクチン」だった。でも知ればいいのか。正確に知りさえすれば、差別も偏見もなくなるのか。そんなはずがない。問題がそんなに簡単ならば、『五体不満足』があんなに売れるわけがない。田中外相が教科書問題で頭を悩ませるわけもない。差別や偏見といったものは、不幸な時代背景や、無知につけこんだ教育に起因することも多いが、結局のところ理屈ではなく、極めて情緒的な部分に根ざすものであるからだ。

 
それはなぜか。差別や偏見もまた、喜びや悲しみと同様、すべての人間に与えられた感情のひとつだからである。そしてこの感情が他者の尊厳に関わるがゆえに、私たちはずっとこの割り切れない感情に対し、差別と偏見に満ちた扱いをしてきたのではないだろうか。
 ハンセン病訴訟の報道の中で、元患者らは自分たちの病み崩れた体を画面にさらすことで現状を訴えた。思わず目を背けた人も多かっただろう。込み上げてくる不快感にチャンネルを変えた人もいただろう。それ自体は至極健康な反応であると私は思う。だが、目をそらしたところで、チャンネルを変えたところで、彼らと彼らにまつわる問題が厳然とこの世に存在するという事実を変えることは出来ない。かと言って何らかの実際行動に出るには余りに現実感に乏しいし、そのような社会的システムも少ない。私たちがすべきは、自分たちの中のネガティヴな感情を明確に認識し、そこから生まれる無力感や後ろめたさを潔く引き受けることだと思う。
 子供が遺書を残して自殺する。学校はいじめはなかったと言い張る。あるものをないと言うからややこしくなる。この世には、戦争や幼児虐待やいじめや、あるべきではないけれど、あってほしくないけれど、実際は存在するものが幾つもある。「自分は誰かを差別したりしない」などという人を、私は信用しない。電車の中でお年寄りが目の前にいることを知っていながら、寝たふりをしてしまったとへこむ人を信用する。
 昔深夜放送をやっていた時、リスナーからジングル(CM明けなどに使うタイトルコールのようなもの)を募集していたことがあった。毎週寄せられた中から幾つかを選んでオンエアし、面白いものは残して何度も使ったりした。ある時ひとつのジングルに対して、「どういう意味なのか」というような問い合わせがあった。クレームとまでは行かなくても、多少そういったニュアンスを含んだ問い合わせだったらしく、そのジングルは1回のオンエアで姿を消し、その話を私はしばらく経ってから聞かされた。今でもはっきり覚えている。そのジングルは「上には上の良さがある、下には下の良さがある。篠原美也子の〜(番組名)」というものだった。深夜の生放送という番組の性格上、受験生や浪人生がリスナーに多く、このジングルも、試験に落ちたとか受かったとかいう話題に対するもので、もちろん作者に他意はなかったし、放送する私たちも何ひとつ問題と思わなかった。問い合わせてきた人はその人なりに何か思うところがあったのだろうと、私は呑気に考えていた。
 その後、局の上の方の人と話す機会があり、たまたまこの話になった。彼は鷹揚に、まあそんなこともあるよというようなことを言ったあと、でもやっぱりああいうこと言うと、下の方の人に悪いからねと言った。多分いい大学を出て、有名ラジオ局に入社して、当時まだ30代半ばくらいだったと思うけれどある程度の地位について、彼はきっとリベラリストを自負していたに違いないと思う。差別や偏見というものが未必の故意であると気付いたのはこの時だったかもしれない。
 この世はいつも無邪気な差別と偏見に満ちあふれている。差別や偏見が人間の感情である限り、この世からそれらを無くすことは出来ない。「知るワクチン」の「知る」は、そのものに対する理解という意味と共に、自分自身に潜んでいるであろうネガティヴを「知る」ということである。そういう感情が自分の中にあることを認識出来れば、それらからある程度自由になることが出来るはずだ。否定してみても始まらない。人格者になろうとするより、認めた上で付き合い方を考えて行くべきだと、私は思う。
 平等ということは、「みんな同じ」ではなく「みんな違う」という観点から考えないと、とんでもなく間違った方向に行ってしまう。平等だからみんな同じ、ではなく、みんな違うから平等、なのである。
 自戒を込めて。

last up date 2001.5/30
このページは2週間ごとに更新の予定です
予定は、未定..

back issue