2000年春、東京百歌に出演が決まって、真っ先に手をつけたのは、前述のシオンのライブでの気持ちを書いた『S』という歌だった。久しぶりに取り出して歌詞に少し手を入れると、自分でも驚くほどあっさりとその歌は呼吸を始めた。
その頃私は、反町隆史君のアルバムに提供する歌を書いていたところで、既に採用が決定していた『SHE
IS GONE』(のちに『WIND IS GONE』と改題)を初めての東京百歌で歌った。大切な人が去って行き、なぜ世界は終わらない?と立ち尽くす主人公の姿は、実はそのまま私自身の姿でもあった。そして、それでもそこで生きていく中にしか答えは無いというのも、私自身の思いに他ならなかった。
『flower』は、1999年の暮れの東野くんとのジョイントライブで、初めて人前で歌った。さっきも書いたように、リリースに至らなかったのは様々な環境の不運もあったけれど、当時のスタッフたちから曲としてほとんど支持を受けられなかったということもあった。でも今なら絶対「歌える」と私は確信していた。前回のノーコンにも書いたとおり、歌は間違っていなかったのだ。3年を経て、やっと咲いた花。
東京百歌は予想外に盛り上がり、マンスリーとなる。季節は春から夏へと移り、ボクサーのセレス小林と、夏の甲子園に出場していた東海大浦安の浜名投手という二人の敗者に打たれて、『HERO』を書いた。この時の様子はノーコンの14球に詳しくある。毎月ライブをやるようになって、『S』のように昔のものを手直ししたり、新曲を書いたり、それなりに手応えは掴んでいたが、『HERO』が出来あがった時、私は契約を終わって以来初めて、まだやって行けそうだと思った。こういう歌が書けるなら、まだやる意味があるかもしれない。おりしも東京百歌が盛り上がって行く中で、ある種の戸惑いを感じていた時期だった。この歌が書けていなかったら、私はその後のワンマン、CDと続く展開を乗り切れたかどうか。暗くて重くて地味な歌だが、私にとっては起死回生の1曲となった。
CDを作ることになり、再びオフィシャルな存在になることへの混乱が、多分『water』という極めてプライベートな歌を書かせたんだと思う。プロのソングライターである以上、日記を歌にするべきではないと、私は昔よく言っていたのだが、この歌は明らかに私の日記であり、独白である。あしたの自分に もしかして そういってあげたい 2000年秋、私はまさにそう思っていた。
入口からは全く想像のつかない出口にたどり着いた2000年、暮れ。ワンマンに向けた曲選びの中で、『秒針のビート』はある日突然浮上してきた。一緒に選曲を手伝ってくれたスタッフが昔のデモテープに入っていたこの曲を覚えていて、そう言えばと私も思い出し、『秒針』1曲目、書いたばかりの『place』が本編最後、と一気に曲順が決まって行った。『秒針』を書いたのは1998年の暮れ。私の目覚し時計は安物で、ちっちっと秒針の音がするヤツで、普段は忘れているのだがいったん気になり出すとどうにもたまらない、というのが最初の取っ掛かりだったように思う。歌詞と構成に少し手を入れて、これも『S』と同じようにあっという間に息を吹き返し、あまりに好評だったのでCDにも滑り込みでエントリーとなった。無限のように思われた時間に限りがあると気付いたのは、やっぱり30を過ぎた頃からだったろうか。私が女として、欲望の対象としていられるのは、あとどれくらいなんだろう。見捨てられたように年を取ることへの恐怖が、実はこの歌を書かせた最大の動機だった。
そして、『place』。私がライブを再開して以来あちこちから聞こえたたくさんの「おかえり」を、私は一生忘れないだろう。この歌が出来たとき、ワンマンのイメージが一気に固まって、ああこれでアルバムも出来たなと思ったのを覚えている。
さて。では私は今再び生きることに熱中しているのだろうか?
結局のところ、契約切れはツケみたいなもので、それ自体は至極当然の結末だった。このご時世、スタッフがどんなに頑張っても結果が出ないまま6枚もアルバムを出せるなんてことはもうあり得ない。私のメジャーでのキャリアは、今思えば奇跡のようなものだった。それに私がもう一度歌い始めるためには、どのみちいったんすべてを失くしてしまう以外になかった。神様は、罰とチャンスを一応ひとつずつくれたのだ。
前のめりの10代。永遠に続くように思われた20代。夢のはじめが誰でもそうであるように、希望に満ちあふれ、混乱していた時代。デビューした頃だろうか、私は、熱狂の季節が終わったあとの方が、人生は長いことに気付き始めていた。そしてその長い日々に寄り添って行ける歌を書きたいと思った。今まさに、その長い日々の中に私はいる。
再び問う。私は今生きることに熱中しているのだろうか?わからない。でもこの無茶苦茶な人生を楽しんでいることは確かだ。楽しむということはある意味あきらめといい加減さのごった煮で、そこに自暴自棄のスパイスを少々加えるとよりおいしいというものなのかもしれない。私は前ほど他人に自分を理解して欲しいと思わなくなったし、自分が誰かより優れていると思いたがらなくなったし、自分の情緒的な部分を話したいとも思わなくなった。『magnolia』や契約切れにまつわる話も、ほんとうは黙って墓場まで持って行こうと思っていた。でも、古い雑文を読み返して、ほとんど痛々しいまでに生きることに誠実だった自分を思い出しながら、そのなれの果ても書いておきたいと思った。
必死で生きていた頃、大切なのは自分や環境に対して期待してあげるということだった。まだまだこんなもんじゃないだろう、こんな程度で喜んじゃ駄目だろう。今一番悔やんでいるのは、渋公の楽屋とかをもっとありがたく見とくんだった、ということである。ほとんど覚えていないのだ。ステージ、袖、楽屋に続く階段、どれもぼんやりと断片的にしか。なぜならあの頃の私は、渋公でのライブ、デビューしたことでさえも、どうってことないと思おうとしていたからだ。と言うか、ここで満足したら次に行けないぞ!と自分を戒め続けていたからだ。
今は違う。私は元々涙もろいが、ちょっとしたことで泣いたり、大笑いしたり、自分に起きるすべてのことを心ゆくまで味わい、惜しむことなく感情を注ぎたいと思う。与えられた時間には限りがある。どんな小さなことでも、もしかしたらもうこの先出会うことはないかもしれないのだ。
私は全力で闘い、そして敗れた。ただ、だからといって人生は終わってはくれない。私が今、今までのどんな時期にもまして負ける気がしないのは、勝とうとしていないからだ。私は敗北の中にこそ、永遠を見てしまった。
そんなわけで、今私は少々面映ゆいような気分で、自分の新しい羽根を見つめている。ぴかぴか過ぎて、新品のスニーカーみたいで、ちょっと汚してみたいなあなんて思いながら。こんなヤツが世の中にひとりくらいいてもいいだろう。私に罰とチャンスをひとつずつくれた神様は、今の私をどんな風に思ってるだろうか。
戦力外通告を受けたあの花曇りの午後から、もうすぐ丸2年になる。 |