パソコンがやってきて、all lyricsのために歌詞を打ち込んだり、住所録の整理をしながら、そうだこれまでにあちこちに書き散らかした雑文の類いもまとめよう!と思い、古いファイルを引っ張り出してみた。
小学校の作文に始まり読むのと同じくらい書くことも好きだった私は、やがて音楽と出会い、長い長い歌詞を書くようになるのだが(笑)、アマチュア時代ライブのたびに配っていた歌詞カード(といっても、ワープロで打ったものをコピーしてホチキスで綴じただけのものだが)の終わりに、その時どきに思ったことをつらつらと書いていた。デビュー当時、その中から選んだ文章を載せたフライヤーがCDショップなどに置かれたので、古いファンの人の中には持っている人がいるかもしれない。なつかしいというより、照れ臭いような気分で久しぶりに読み返してみた。そして、あることに気付いた。それは、音楽に関する記述がほとんど無いということだった。その頃やっていた法律事務所でのアルバイトの様子や、そこで思ったこと、待ち合わせの相手を待ちながら見えた風景、大好きな童話『人魚姫』の心意気について、そしてデビューが決まって騒がしくなって行く中で流されまいと突っ張る反抗心。そこには音楽への思いはなく、私ときたら、念願のデビューが決まった時もちっともうれしそうじゃない。でも違う。ほんとうは、あんまりうれしくて、それを認めるのが恐かったのだ。認めたら
、それが逃げてしまうとでもいうように。
しばらくあとに、実家にあったスクラップブック(親ってありがたいもんだわね)で、デビュー当時の雑誌のインタビュー記事や自分で書いたコメントなどを読んだ時も、同じような印象を受けた。歌詞について訊かれることが多かったせいもあるのだろうが、「海になりたい青」がデビューという海にたどり着いてしまった戸惑いや、その中でくり返し満ちては欠けて行く月であろうとする葛藤、やがて灰色という曖昧な色に自分を重ね合わせて行く心の移り変わりが、ページのあちこちで語られている。多分あの頃、というか、長いアマチュア時代から、デビューして、3枚目の『いとおしいグレイ』あたりまでの私は、どんな音楽をやるのかということより、どんな風に生きて行くのかということばかり考えていたんだと思う。
それでも音楽を仕事にしたからには、健康な向上心の中で「音楽」と正面から向き合う日がやってくる。まして思うように結果が出ない中、それは自分に何かが足りないからだと考えた28歳の私だった。4枚目から5枚目にかけての私は、言葉を、歌を、どんな音楽でどんな風に表現するのかという、自分にとっては新しい課題に夢中になって取り組んでいた。いつの間にか作り上げてしまった自分のイメージから脱却したくて、スントーさんにグラフィックをお願いしたのもこの頃である。
しかし、5枚目『Vivien』でわずかに掴みかけたイメージを完成させるはずだった『flower』はお蔵入りとなり、事態は一転、私はナッシュビルでマキシシングル『Still』を制作することになる。前向きではあったけれど、実際は結果が出ない状況に対する苦肉の策だった。でも、もうそんなことでもしない限り篠原美也子のCDをリリースすることは難しいと知って、何もかもが絶望的に違うと思いながら、私は結果的にメジャー最後のアルバムとなる『magnolia』を再びナッシュビルで作ることを承諾した。そしてスタッフにこう言った。言うとおりにする代わりに、このアルバムが売れなくても私に責任を取らせないで欲しい。
かわいそうな『magnolia』。街中で空に向かって高らかに咲いていた白い花。私は『LIKE
17』や『Life is a Traffic Jam』を死ぬほど愛しているし、プロデュースをしてくれたROSSとその仲間たち、家族たちがほんとうに大好きだった。私はこのアルバムが嫌いなのでは、決してない。このアルバムを作っていた時の自分が、反吐が出るほど嫌いなのだ。
私は、契約の続行と引き換えに、自分の音楽を手放してしまった。
その罰はすぐに与えられた。『magnolia』は当然のごとく結果を出せなかったが、約束通り私は次の作品の準備に入り、そして大スランプに陥った。書いても書いても言葉は紙の上を滑って行き、メロディは力なく横たわったままで、私は来る日も来る日もただ呆然とピアノの鍵盤を見つめていた。
『magnolia』を作り終えてしばらく経った頃、曲作りに入る少し前、久しぶりにシオンのミニライブを見る機会があった。1曲目の『俺の声』を聴きながら、私はひたすら恥ずかしくて、情けなくて泣いていた。シオンの声は、歌は、私が初めて彼の歌に出会った時と何ひとつ変わることなく、静かにあり続けていた。そこには信念があり、ポリシーがあり、生き方があった。かつて私自身も確かに持っていたはずのそれらを、私はその時もう何ひとつ持っていなかった。しかもそれらは奪われたのではなく、自分から捨ててしまったのだった。恥ずかしくて、情けなくて、死んでしまいたかった。もう一度、歌に、言葉に戻って行きたいと心から思ったけれど、戻れないこともわかっていた。
やがて、力尽きるように冬が終わった頃、契約終了の通達が届く。私よりマネージャーの方がたくさん泣いた。彼女はそれまでの日々の中でも、いつも見えないところで私の分まで泣いてくれていたことを私は知っている。私ももちろん動揺したけれど、同じくらい心が軽くなるのを感じてもいた。最初に思ったのは、もうこれで曲作りで煮詰まらなくてもいいんだということだった。幾つもの結び目が一気にほどけて行くように、その時やっと私の中ですべての原因と結果が1本の線になって行った。
私にとって、どんな風に生きているかを歌うのではなく、どんな風に生きているかということ自体が歌だった。脂っこい表現になるが、生き様にこだわりぬき、生きることに熱中していたからこそ、私の歌はたとえ未熟でも人の心を打ったのだ。デビューして、結果が出ない焦りから自分のスタイルを疑い、自分の歌が信じられなくなり始め、だんだんと私は生きることに熱中出来なくなって行った。そして迎えた『magnolia』の制作をめぐるつらい日々。
あの時の、マキシシングルの方向性でアルバムもアメリカに行って作ろうというスタッフの申し出は、言外にそうでなければもうリリースはないよという意味を含んでいた。これは決して脅迫でも恫喝でもない。スタッフたちは、何としてでも私のアルバムを作りたいと、必死だったのだ。選択肢は無い、と思った。私はその代わり責任は取らないという条件付きでその申し出を受けた。でも選択肢は、ほんとうはもうひとつあった。なぜ私はあの時、やりたくないことはやらないと言って席を蹴れなかったんだろう?たとえその場で契約を切られたとしても。
そんなカッコイイこと、と笑われるのは承知の上である。でもそれこそが私の歌だった。バンドブームの時代を弾き語りで突っ切り、総立ちのコンサートを軽蔑し、人と同じことをするくらいなら死んだほうがましだと言い放ってきた。そして、潔くあれと常に思ってきた。私は自分の歌に背いてしまった。今でもこの時のことを思うと、夜中に目が覚めるような気持ちになる。多分一生悔やみ続けるのだろう。そのようにして、私のメジャー時代は終わりを告げた。
|