第7球

 頑張って、早起きをする(と言っても、私にしては、という意味なので、大体は10時頃)。
 ベッドから這い出して、冷たい空気の中、しばしボー然とする(低血圧の為、寝起きは急に動けない)。
 ふつか酔いでない時は、おにぎりやサンドイッチなど、お弁当を作る(ふつか酔いの時は、ポカリスウェットとコーヒーで、とにかく人間に戻る努力をする)。
 上は、ババシャツ、薄手のセーター、厚手のセーター、ウールのブルゾン、の上に大きめのダウン、下は、最低80デニールのタイツの上にスパッツ、厚手の靴下、その上からジーンズか皮パン、マフラー手袋はもちろん、耳まで隠れる毛糸の帽子、など、思いつく限りの厚着でむくむくに着ぶくれる(晴れた日で席がバックスタンドの場合、多少の油断可。席がメインスタンドの場合は日陰なので、どんなにいい天気でも最重装備が基本)。
 ひざかけ、双眼鏡をバッグに放り込み、準備完了。
 いざ、スタジアムへ。
 いざ、この世で最も馬鹿馬鹿しくて、いとおしい、楕円球をめぐるジェントルマンたちの陣取り合戦場へ。

 ・・・てなかんじで、今シーズンも幾度となくラグビー場で幸福な冬の午後を過ごしたワタシ。シーズン終了で、週末サビシクなっちゃったけど、4月はセブンス(7人制)行くもんね。
 さて、今季話題をさらったのは、何と言っても、創部100周年を、見事大学選手権単独初優勝で飾った、慶應義塾体育会蹴球部(86年の初優勝の時は、同スコアにより早稲田と2校同時優勝)。
 思えば去年の1月2日、13年振りの決勝進出をかけた準決勝対明治戦で、ほぼ勝利は確実と思われた後半ロスタイム、明治斉藤祐也のまさかの逆転トライをくらい、涙の敗退(走る、というよりも、ほとんど飛び跳ねるようにゴールを駆け抜けて行った斉藤の姿が、今でも忘れられない)。雪辱を期した今シーズン、明治には41対10で圧勝、全勝対決となった早慶戦は、普段なかなか埋まらないエンドライン側の立見席まで一杯になり、おいおい秩父宮にこんなに人が入ってんの初めて見たよってくらいの盛り上がりの中、前半早稲田にリードを許しながら、後半FWが奮起し鮮やかな逆転勝利。終盤、早稲田ゴール前でペナルティを得、キックではなくスクラムを選択し、そのまま押し込んでトライを奪ったシーンでは、私の斜め後ろにいた慶應OBとおぼしきおやじ2人組は、ほとんど感極まった様子で、「よーし、そーだ、よーし!」と叫んでいた。
 全勝のまま進んだ大学選手権も、逆転に次ぐ逆転で勝ち進み、迎えた決勝の相手は、3連覇を狙う関東学院。地力では関東が上と言う前評判を跳ね飛ばし、慶應はリードして前半を終了。後半も、集中力の落ちないディフェンスで関東を押さえ込む。徹底的なマークに遭い、ほとんど何もさせてもらえなかった関東学院の司令塔淵上宗志、その淵上のキックを猛烈なチャージでカットした慶應のFL野澤くんの気迫あふれるプレーが忘れられない。
 終ってみれば27対7、堂々たるタイガージャージーの復活だった。涙の上田監督に、心おきなくもらい泣きの私。
 日本選手権は、善戦むなしく1回戦でNECに敗れ、今シーズンの慶應ラグビーは終わりを告げたが、試合後の秩父宮には、慶應フィフティーンを称える拍手がいつまでも鳴り響いていた。
 キャプテンの高田くん(サッカーの小野選手をもっと面長にして、端正にして、サラサラヘアーにしたかんじの、とにかくグッドルッキング!)は卒業だが、快速WTB栗原くんは3年生、イノシシFL野澤くんはまだ2年生。来季は各校一斉に“打倒慶應”でくると思うけど、ぜひまたよいラグビーを見せて欲しいもんである。
 ちなみに社会人は、神戸製鋼がこれまた5年振りに王座奪取。日本選手権も順当に勝ち進み、決勝では、準決勝で食い下がるワールドに残り2分で逆転勝ち(雨ん中見に行ってホントによかったよー)した、去年の王者トヨタに圧勝。“Steelers”完全復活なのだ!
 また、今季不振で日本選手権出場を果たせなかった東芝府中を長く支え、平尾ジャパンでは初の外国人キャプテンも務めた、アンドリュー“アンガス”マコーミック選手の引退表明は本当に残念。あのタックルがもう見られないなんて。でも心から、おつかれさまでした。

 かくして、ラグビー三昧の日々が終ると、バトンタッチのようにプロ野球のオープン戦が始まり、いよいよ、春本番。
 そんな3月12日、まさに春の陽差しが両手を広げたようなよく晴れた午後、スタジアムのゲートをくぐり、トラックに飛び込んできた高橋尚子は、誰かを探すようにわずかに視線を泳がせ、コース上では集中し切っていた表情をふっとゆるめた。
 あとで、監督の姿を見つけたので、と言っていたが、あの笑顔の1歩手前のような表情に胸を打たれたのは、私ひとりではあるまい。誇らしげでもあり、照れ臭そうでもあり、しかし、抑えても抑えてもあふれてしまう感情を体いっぱいに湛えて走る彼女の姿は、まさに“喜び“そのものだった。
 22km過ぎのスパートから独走、ぶっちぎりの圧勝という状況のせいもあったと思うが、そこには過酷な距離を走り抜いてきた悲壮感はなく、むしろ圧倒的なスピードとは対照的な穏やかさが、スタジアムを満たしていた。ああ、これはカーテンコールだ、と思った。ドラマの幕は降り、再び幕が上がったステージで、惜しみない拍手の中、役者たちは素顔の表情を取り戻す。誇らしげに、照れ臭そうに、どこかで見ていてくれるはずの人を、そっと探す。そして、今度こそほんとうに幕が降りる。
 歓喜のゴールシーンを見ながら、喜びよりも悲しみについて、より多く思ってしまうのはなぜだろう。ケガによる不本意なブランク、オリンピック代表選考レースというプレッシャー、日本最高記録保持者としての誇り。高橋尚子はそれらの雑音すべてを、浄化し、削ぎ落とし、たったひとつ“走れる喜び”だけを携えてゴールした。
 光の陰にどれだけの闇があったのだろうと想像する時、人は初めて勇気を得ることが出来る。選ばれし稀有な才能のみが、光を得ることが出来るとしても、だ。
 ともあれ、高橋尚子の前途に幸あれ。シドニーでもまた、素晴らしいカーテンコールを見せてくれい。


 そのわずか4日後、一気に寄り切るかに見えた春を土俵際うっちゃるような冷たい雨の日、若乃花引退。横綱在位11場所、うち休場5場所、最後は場所中力尽きるということになった。公私共に騒がしかったが、女グセの悪さはこの際おくとして、まずはおつかれさまである(しかし大阪のあの下品な手拍子と“若乃花コール”は何なんだ!?)。
 ケガに泣かされたとは言え、考えてみれば我々はもうとうに、父に勝るとも劣らない名大関を失っていたのだ。結果論になるが、若乃花の場合、頂点に昇り詰めることであたら才能を散らしてしまったのは明らかだ。相撲人気の低迷に、兄弟横綱の大見出しが欲しかったのだろうが、協会および横綱審議会の責任は重い。
 それにしても、横綱審議会だの、国家公安委員会だの、ヒマな年寄りの寄り合いサークルみたいなの、いい加減何とかしようぜ、まったく。


 冬の名残りと、はしりの春が交錯するこの時期。笑う人あれば泣く人あり、始まる人あれば終わる人あり、とりあえず、目下私の人生は、大量の花粉と戦うんで手一杯なのであるが。
LAST UP DATE 1999.4.30